なぜ「印象に残らない存在でありたい」のか。サッカー女性審判員・山下良美の哲学
W杯からJリーグまで、国内外におけるトップクラスの舞台で活躍を見せるプロフェッショナルレフェリーの山下良美(やました・よしみ)さん。2012年に女子1級審判員の資格を取得し、2015年にはFIFAの国際審判員に登録。全国高校サッカー選手権大会やAFC女子アジアカップなどで実績を積み、2021年には史上初の女性主審としてJリーグの舞台で笛を吹きました。
そして2024年、パリオリンピックでは五輪男子サッカー史上初の女性主審を務めるという歴史的な瞬間を創出。「女性初」のキャリアを切り拓き続ける山下さんに、これまでの歩みや現在感じている課題、審判員としての哲学について、お話を伺いました。
サッカーへの思いを貫き、プロ審判員の道へ
ー最初にキャリアについてお話を伺います。審判員の道に進んだ経緯を教えて下さい。
純粋にサッカーが大好きで、サッカーに関わりたいという思いが高じて審判員になりました。もともと大学までは選手としてプレーしていたのですが、当時は女子のプロサッカー選手がいない時代。サッカーを続けたいけど…と考えていた時に、審判員のキャリアがあると知りました。
プレーヤーとしての経験を活かしつつ、サッカーへの情熱を別の形で実現できる方法として、このキャリアを選択したのは自然な流れだったと思います。今でこそプロの審判員として活動していますが、根本的な気持ちは昔と変わっていません。ただ好きなことを続けているという感覚に近いです。
ーサッカーへの思いを貫き続けた結果、今に至ったという?
そうです。でもそれは私のあまり良くない部分でもあります。先のことを深く考えず、その時々でやりたいことを追求するタイプ(笑)。結果的には大好きなサッカーを仕事として続けられているので、私はとても幸せ者だと思います。
ープロとして活動を始めてから、日々の生活に変化はありましたか?
時間の使い方が変わりました。特にトレーニングに費やせる時間がかなり増えたと思います。以前は審判以外の仕事もあり、なかなか満足のいく練習ができなかったんです。でも今は、時間も場所も、ずっと自由になりました。様々な競技場に行けるようになったり、一番ベストなタイミングでトレーニングできるようになったり。実際の試合と同じ時間に練習できるのも、プロならではの大きなメリットです。
ー普段のトレーニングメニューを教えて下さい。
年1回以上あるフィットネステストの種目をベースにトレーニングしています。種目は40mスプリントとインターバル走(75m走って、25m歩くを繰り返す)。普段からこれらの種目に近いメニューでトレーニングを行っています。例えば、40mスプリントを6本走った後、インターバル走を40回行うといった具合です。
ートレーニングをする際に意識されていることは?
スピード、持久力、アジリティを意識しています。これらをバランスよく向上させるため、先ほど紹介したメニューの他に、筋トレや怪我予防のトレーニングも欠かせません。それ以外にも、体のケアには時間を割いています。今は定期的にマッサージを受けるなど、以前と比べて自分の体と向き合うようになりました。
選手と共に良い試合を作る。審判活動は「チーム競技」
ーレフェリングの技術向上のために行っていることも教えて下さい。
メインで行っているのは、映像を使った振り返りや分析です。自分が担当した試合を見返して、実際にピッチで見たものと映像で見たもののギャップを考えたり、できなかったことがあればそれについて考えたり。あとは次の試合に向けた準備として、チームや選手の分析も。試合で起こりうる状況を予測し、それに対する準備をすることで、予想外の出来事を減らすよう心がけています。
それ以外にも、他の審判員の映像を見て学ぶことも非常に大切です。「自分ならどうジャッジするか」と考えながら見ることで、新しい視点や技術が得られます。他にも、JFAが開催するセミナーや研修会に参加し、常に最新の知識を取り入れるよう努めています。
ー山下さんから見て、凄いと感じる審判員はどんな人ですか?
ポジション取りが上手い人ですね。やはり審判員というのは「見えない」と何もできません。常に見える位置にいるために、細かく動いたり、選手とコミュニケーションを取ったりできる人は凄いなあと。ちなみにその動きの中には単純な移動だけではなく、所作や表情、目の動きなども含まれています。特に海外のレフェリーは目力が凄いですし、日本人に比べると全体的に表現力が豊かな印象があります。
ーフィジカル面や技術面で、課題に感じている部分はありますか?
フィジカル面ではスプリントです。実はもともと足が遅くて…。でも、スプリント専門のコーチにイチから走り方を教わったところ、タイムがぐんと縮まったんです。30歳を超えてからの変化だったので、自信につながりました。
技術面ではマネジメントやコミュニケーションの部分にまだまだ課題があります。特に気づきの能力が足りていないなと。例えば、「今、この選手はフラストレーションが溜まっているな」とか。そういうことになかなか気づけないんです。でも、何かが起こる前に予防する、起こさないようにするというのは、審判員にとってはすごく大切なスキル。だからこそもっと選手の心理状態や試合の雰囲気に敏感に反応できる審判員になりたいです。
ー「何かが起こる前に予防する」というのは、具体的にどういったことをされているんですか?
手段はいろいろあります。例えば、ファウルが起きそうな雰囲気を感じたら、選手の近くに寄って「私、ここにいますよ」と示すだけでも予防になるんです。イメージしやすく言うと、警察官の取り締まりに近いかもしれません。特に何もしなくても、そこにいるだけで効果があるような感じです。あと私がよくやるのは、最初にはっきり言うこと。「これ見てますよ」とか。あらかじめ声をかけることで意識してくれる選手も多いんです。
ー想像以上に選手とコミュニケーションを取られていて驚きました。
実はコミュニケーションが物凄く大事です。選手だってPKを取られたくないし、カードももらいたくない。私たちレフェリーも、できればカードは出したくありません。だからこそ、予防が必要ですし、予測もとても重要です。「ここにボールが来そうだな」とか「ここで何か起こりそうだな」とか。試合の展開を先読みして、予めそこへ行っておく。なので審判は、ポジショニングや動きがすごく大切なんです。
ー選手と同じように、頭も体も使われていて、もはや一種のスポーツのようですね。
そうですね。選手と共に良い試合を作り上げるという意味では、一種のチーム競技とも言えるかもしれません。
人間だけどロボットのように見られたい…審判員の複雑な気持ち
ー別の記事で「審判員としてロボットと人間の間の存在でありたい」とお話されているのを拝見しました。この考えについて詳しく教えていただけますか?
審判員には人間的な部分とロボット的な部分の二面性が必要だと思っています。笛を吹いたりカードを出したりする瞬間は、まるでロボットのように感情を入れずに動く必要がある。でも、その判断に至るまでのプロセス、特に先ほど話した予防の部分は、人間としての感覚が必要になる。ルールを厳格に適用すること、状況に応じて柔軟に対応すること。この相反する二つの要素を併せ持つという点で、審判員は「人間とロボットの間の存在」であるべきだと思っています。
ーなるほど。試合中の審判員はどうしてもロボット的に見られがちですが、人間的な部分ももっと理解してもらいたいですよね。
いや、実は、ロボットのように見られたい気持ちもあるんです。もちろん、人間的な部分を知ってほしいという思いもあります。でも、どちらかと言えば印象に残らない存在でありたいです。外から見たら、起きたことに対してただ判定をしているだけの人、と思われるくらいが丁度いいかもしれません。なぜなら、そう思われるということは、私の判定が自然に受け入れられているという証拠。だから観客の方に対して機械的な印象を与えられる人こそが、審判員としては優秀だと思っています。
ーでは逆に、判定に対して様々な声が上がってしまう状況についてはどのようにお考えですか?
自分の判定に対していろいろな意見があるという事実を受け止め、分析することがとても大切だと考えています。たとえ自分の判断が正しかったと確信していても、異なる見方があると知っておくべきです。「こういう理由で、こう考える人もいるんだろうな」と。多様な視点を持つことが、未来のより良い判定につながると思っています。
ー意見を受け止めるメンタルの強さがすごいです…。
いや、全然強くないです(笑)。むしろ性格かもしれません。いろいろな意見に対して、あまり深く考えないので。だからこそちゃんと向き合って考えるようにしています。ただ試合直後だと落ち込んでしまうので、少し時間を置いて冷静になってから振り返ることが多いです。
ーパリオリンピックでは初の女性審判団として男子サッカーの試合を担当されました。どのような思いで臨まれましたか ?
初の女性審判団として特別な思いはありましたが、どの試合も責任の重さは変わりません。普段通りやるべきことをやるだけ、という気持ちでした。ただ、正直なところ、もし失敗すれば次の機会はないかもしれないなと。そういう不安は少なからずあったので、とにかく100%を尽くそうと。3人で心を一つにして臨みました。
オリンピックならではの点といえば、普段サッカーを見ないような方々にも注目いただける可能性があるということ。そういった方々に良い印象を与えられればと思いつつ、逆にネガティブな印象を残さないようには意識していました。
ー最後に、今後の目標を教えて下さい。
今いただいている機会を大切にしながら、この機会を継続し、次に繋げていきたいです。そのためにも目の前の1試合1試合に、全力で向き合いたいと思います。
それ以外にも、審判員というキャリアの魅力を発信していきたいです。個人的にはもっと多くの女性にこの世界に飛び込んでもらいたいので、サッカーに関わりたい、と思います。