中野友加里「減量中は一日一食」危険なダイエットから月経不順に。将来を見据えた選択を

日本のフィギュアスケート界は、2000年代後半にダイナミックな展開を遂げました。浅田真央さんが、グランプリファイナルで優勝を飾った2005年。荒川静香さんがトリノ五輪で金メダルを獲得し、センセーションを巻き起こした2006年——。

かくして、ウィンタースポーツの花形競技となったフィギュアスケート。そして今回のインタビューのお相手となる中野友加里さんは、この時代のフィギュアスケート界で激戦を繰り広げた元日本代表選手です。

中野さんは2005年NHK杯優勝、2007年冬季アジア大会優勝など数々の実績を残され、文部科学省より二度「国際競技大会優秀者等表彰」を受賞された経験もあります。早稲田大学大学院卒業・引退後はフジテレビに入社。現在二児の母として家事・育児に奮闘しながら、フィギュアスケート競技のジャッジとしても活躍中です。

今回のインタビューでは、現役時代の体型管理や引退後のセカンドキャリア、月経不順が出産に与えた影響など、幅広くお話を伺いました。

(聞き手:花城みなみ/フィギュア元ドイツ代表)

フィギュアスケートのメジャー進出と自身の最盛期

—名古屋から新横浜に移籍されてから益々のご活躍をされた印象がありますが、当時の中野さんにとってどのような時期だったのでしょうか。

私のスケート人生における大きな転機となる時期でした。18歳で早稲田大学に進学した私は上京を機に、新横浜の佐藤信夫先生のもとで練習を始めました。

最初は思わしい結果が得られませんでしたが、1年経った頃から先生の指導が厳しくなり、レッスン量も増えたんです。その結果、新しい技を次々と習得し、各試合で自己ベストを塗り替えていきました。

ちょうどその時期、浅田真央ちゃんがGPファイナルで優勝したことを皮切りにフィギュア界が一気に盛り上がりを見せました。私が成績を伸ばしていた時期と、フィギュアスケートがメジャー競技へと移り変わる時期とが重なったんです。

—その頃から「見る需要」が格段に上がったイメージはあります。

そうですね。フィギュアは長い間マイナースポーツの位置付けでしたが、その時期を境に地上波での放映が当たり前になりました。

かつては空席が目立った試合も、チケットが入手困難になるほどの人気に。有難いことに、フィギュアスケートの注目度が上がったことで私自身もメディアに取り上げられる機会に恵まれました。

多くの方々に注目いただけることは嬉しい反面、翌シーズンからは「自分を超えていかなくてはいけない」「期待に応えたい」という焦りやプレッシャーを感じるようにもなりました。

—中野さんは、私を含めた新横浜の選手たちにとっての「いちばん身近なロールモデル」的存在でした。こうしてお話していると、毎朝6時からの朝練の風景が思い出されます。

その頃の新横浜には朝6時から9時45分まで貸切の時間があったのですが、早朝には誰もいなかったんですよ。私と安藤美姫ちゃんと小塚崇彦君の「名古屋組3人組」が、主に新横浜の早朝練習に姿を見せていました。

ですが、それを知った新横浜の選手たちが奮起したのだと思います。子供から大人まで、今まで朝練に参加していなかった選手たちが一気に通うようになったんです。

気がつけば、時には60人以上の選手たちが滑っている日も。接触事故も増えましたが、それでも毎朝5時に起き、朝練に参加する生活を約6年間続けました。

子供にスケートを習わせていない理由

—中野さんは現在、二児のお母様でいらっしゃいますよね。それぞれおいくつですか?

そうですね、7歳の長男と5歳の長女です。

—ちょうどフィギュアスケート開始適齢期だと思うのですが、お子さんにフィギュアスケートを習わせない理由はありますか?

まず、コスト事情をよく知っているからです。週に一度のスケート教室であれば貸靴でも良いかもしれないのですが、競技会を目指す場合は自前のスケート靴を買う必要があります。スケート靴とエッジは別売りで、それぞれ高額です。

移動のコストもかかります。住む場所によっては、選手の親御さんが毎日送り迎えをしなくてはなりません。私自身、週1回の習い事の送迎でさえ「ああ、大変……」と感じるので、毎日となれば厳しいと思ってしまいます。

二つ目は、絶対に口を出してしまうから。私が元競技者なので、「なぜできないのか」と余計に腹を立てたり、先生よりも口を挟んでしまうかもしれません。子供たちには、私も一緒に勉強できる競技をさせた方が賢明かなと思っています。

三つ目に、フィギュアスケートは容姿も問われる競技なので、将来的に子供の負担が大きくなってしまうかもしれないからです。この先の厳しい体型管理について考えると、過度なダイエットにならないスポーツに取り組んでもらえたら嬉しいですね。

—親子の負担が大きく、習い事としてのハードルはかなり高いと思ってしまいます。

ものすごくお金がかかるので……。でも近頃は、お稽古事としてスケート教室に通う子が多いと聞きます。週1回のお教室のような感覚でしょうか。フィギュアスケートは、以前よりも身近な存在になりつつあるのかもしれません。

「水を飲むと太る」「揚げ物やラーメンは毒」先入観に縛られ続けた選手時代

—ここからは、現役時代の悩みについてお伺いしたいと思います。現役時代にいちばん悩まれたことはなんですか?

体重管理です。現役を引退するその日まで、体重と闘い続ける日々。体重が増えないように毎日体重計に乗り、体重の増減によって一喜一憂。ストレスはすべて、重りになって跳ね返ってきました。グラム単位で摂取量を気にしていたので、きつかったなと思います。

—具体的には、どのように体型を維持されていたのでしょうか。

なるべく水を飲まないようにしていました。「水を飲むと太る」と母から言われていたんです。母の若い頃は、部活で水分補給をしてはいけなかったので、その時代の価値観が刷り込まれていたのだと思います。

あとは、置き換えることでバランスを保っていました。例えばカフェで友人とお茶をしたら、その日は食事を摂らないようにしたり。あまり食べ過ぎても気持ち悪くなってしまう体質だったので、試合には空腹状態で臨んでいました。

減量中は一日一食で、栄養バランスは偏りがちでした。一度にたくさん食べることも体に負担がかかりますし、良いダイエット法ではなかったと思います。ただ当時はとにかく体型を維持するのに必死で、食事にはかなり神経質になっていました。

—当時避けていた食べ物はありましたか?

揚げ物とラーメンです。当時ラーメン博物館の裏に住んでいたのですが、一度も行きませんでしたね。ラーメンは毒だと思っていたので、引退するまで食べませんでした。味さえも忘れてしまい、食べたいとも思わなかったんです。

—引退されてから、食生活に変化はありましたか。

「太ってはいけない」という強迫観念が消えず、なかなか食生活は戻りませんでした。それどころか引退後すぐに就職が決まっていたこともあり、入社前にダイエットをしました。「飲み会や夜勤明けの食事で太ってしまう」と不安に思っていたので、少しでも痩せておきたかったんです。入社後も無意識のうちに朝昼晩で食事量を調整していました。

ラーメンは毒だという先入観も抜けませんでした。同僚からラーメンを食べに行こうと誘われたときも、「うわ、どうしよう……」と身構えている自分がいたほどです。渋々食べてみると、「ラーメンってこんな感じだったな」と、忘れていた味を思い出しました。

フィギュアスケーターは美貌も問われる

—現在も体型管理に苦しんでいる選手は多いのではないでしょうか。

私たちより上の世代は、選手の体型に厳しい目で見られるものではなかったと思います。ですが時代の変化とともに、ジャンプなどの技術に加えて見た目の美しさが求められるようになりました。少なくともスケーターにとって一つの重要な要素になっているとは感じます。

これは注目度の高い競技の宿命でもありますが、そのぶん本人たちの負担も大きいと思います。容姿端麗でありながら、高難度のジャンプを跳ばなくてはいけないからです。そのため選手の皆さんは徹底した自己管理をされています。

フィギュア強豪国のロシア人選手たちも、体型管理に苦労されていると聞きました。幼少期から4回転ジャンプの練習をする彼女たちも、いずれ”少女”から”女性”の体つきへと変化します。

女性らしい体型になると回転軸がブレやすくなり、思うようにジャンプが跳べなくなります。高難度のジャンプを跳び続けるために、彼女たちは減量しなくてはいけないのです。

—「容姿端麗でありながら、高難度のジャンプを跳ばなくてはいけない」というのは、自己矛盾のようにも感じてしまいます。

やってはいけない危険なダイエットをしていたと思いますし、当時は自分が正しいと思っていました。でも今思うと絶対に良くなかったと思います。インターネット黎明期で、情報を入手しづらかった影響もありますね。

—体重管理について、コーチや周りの方々から指摘されたご経験はありますか?

周りから、痩せるように促された経験はありませんでした。でも痩せすぎたときには注意されました。滑り切るためのパワーがなくなってしまうので、痩せすぎてはいけないと。

それと同時に、フィギュアスケートは美も問われる競技なので、「痩せすぎたら魅力がなくなってしまうよ」と言われたこともあります。体重を落とせと言われたことは一度もなかったです。

「生理はあってないようなもの」現役時代から続く月経不順が出産に与えた影響

—ご自身が初経を迎えられたときの心情は覚えていらっしゃいますか?

覚えてはいますが、それが太る原因になるとまでは思っていませんでした。ただ今思うとそれが一番の体の変化だったと思います。実際に少女から女性の体つきに変わるタイミングとなったからです。

私は中学3年生で身長が止まり、食べた分だけ横に行くようになったんです。そこから色々なものが崩れ始めました。体重が増えれば回転軸もブレてしまうので、ジャンプの不調に陥ってしまったんです。

その頃から私よりも母親が躍起になって一緒にダイエットを始めたり、「周りはダイエットを成功させているのに、なぜ痩せないの」と怒られたりもしました。

大学生になって一人暮らしを始めてからは、自分で食事管理をする必要に迫られ、食生活に関してより神経質になりました。食べ物のグラム数が常に頭に焼き付いていて、つらかったです。

—現役時代に生理が止まった経験はありますか。

生理はあってないようなものでした。半年間こないのも当たり前。長くて半年、2〜3ヶ月に一度くればいいところ。そういうものだと思っていたんです。周りの選手たちも月経不順や無月経の方が多かったので、誰かに相談しようとも思いませんでした。

今思えば常に危険なダイエットをしていたので、それが月経不順の原因だと思います。

—月経不順や無月経は身近で当たり前の感覚だったのですね。引退されてから月経不順は改善したのでしょうか。

月経不順は変わりませんでした。だから子供が産めるかどうかもわからなかったんです。幸い子宝には恵まれたのですが、ずっと不順のままです。「月経周期は決まっているものだよ」と友人から聞いたときは驚きましたし、信じられませんでした。

—妊娠されて婦人科を受診されたときは、月経不順についてお話されましたか。

病院で、出産予定日を決めるタイミングで打ち明けました。私の出産予定日は3回に渡る変動があり、その際に「選手時代から続く月経不順が影響しているのではないか」と病院の先生は仰いました。結果的には出産予定日に生まれてきたのでよかったです。

「スケートはできても仕事はできない」と思われたくなかった

—続いて、セカンドキャリアについてのお話を伺いたいと思います。24歳で引退を決断された経緯について、教えていただけますか?

過去の自分を超えられないと思い、引退を決めました。周囲からは「まだやれるのに」との声を頂いたのですが、私の中では限界を感じていて。

アスリートなら誰しも過去の自分と比較してしまったり、過去の自分を超えたくなると思うんです。でもいつかは、年齢とともに超えられない時期がきます。そのときに、衰退を受け入れるか引退するか、いずれかの選択を迫られます。

佐藤先生からは、20歳を超えた辺りから急激に体力が落ちると言われていました。20歳の頃はいくら練習しても体力が有り余っていて、何も問題なかったんです。でも21歳から突然体力が落ちて、股関節を繰り返し痛めるようになりました。

歩くのも痛かったので、止むなく練習を休みました。練習を休めば体力も技術力も落ちますし、練習を再開して練習量を上げようとすれば怪我も悪化します。負のスパイラルに陥っていたんです。

そこから技術向上も難しくなり、現状維持が目標になりました。それでも翌年になれば維持さえも難しくなって、最後の一年は針治療を受けながら騙し騙しやっていましたね。「自分に課せられた義務」と思い、残りの試合数をカウントしながら滑っていたのを覚えています。

—引退されてから、フジテレビ入社のニュースが舞い込んだときは驚きました。「テレビ局で働きたい」と思ったきっかけはありますか?

昔からテレビが大好きで、将来はテレビに関係するお仕事がしたいと考えていたんです。

フィギュアスケートの報道数が増えると、大勢の記者の方々がミックスゾーンに入ってくるようになりました。そこから仕事の種類がわかってきて。

新聞社やWebの記事など、同じメディアの中にも数々の選択肢があることを学びました。そこから色々お話を伺ったりして、テレビ局への就職を決めました。

—なぜプロの道を進まずに、就職の道を選ばれたのでしょうか。

もちろんプロスケーターになる道や、コーチや振付師になる選択肢もありました。でも人に教えるのは向いていないし、振付はもってのほか。プロに転向してもいつか滑れなくなってしまいます。

そのように考えたときに、私は社会人になろうと思いました。これからは一般社会に出て、自らの生活基盤を確立しなくては駄目だと感じたのです。

—アスリートから社会人生活へと移り変わったときに大変だったことは

私の名前が知られているのは良かったのですが、「中野友加里はスケートはできても仕事はできない」と思われるのがすごく嫌で。何とかして必死に食らいつく日々でした。

今まではスケートのために両親から多額の投資をしてもらい、それに甘んじて生きてきました。でもいざ社会人になると自分で家賃や食費を払わなければいけません。とにかく毎日必死に生きていたんです。

華やかな表舞台では称賛される機会が多かったのですが、社会人になると褒められることは滅多にありません。いち社会人と同じ扱いを受けるので、当たり前の事とはいえ違和感を覚えることもありました。

—フィギュアスケートの経験が職場で活きたことはありますか?

スケートの経験がいちばん活きたと思ったのは、スポーツ局のニュース班に入ってからのことです。撮影現場では予想外の出来事が起こります。例えば突然ニュースが飛び込んできたり、制作が間に合わなかったり。

フィギュアスケートの競技も同様に、必ずしも予定通りにはいきません。事前に決めたプログラムの要素を完璧に滑るのは大変なことなんです。

例えば前半のコンビネーションジャンプ(=連続ジャンプ)を失敗した場合、その点数を補うために後半の単独ジャンプにコンビネーションをつけます。

Aパターンを用意しても、ミスがあればその場でBパターンやCパターンに変更しなくてはなりません。選手たちは常に頭の中で構成を考えながら滑っているのです。そのような臨機応変な対応が求められるシーンにおいて、スケートの経験が活きたと思います。

—緊張状態の中で必死に計算する経験は、たしかに現場で活きる気がしました。後輩たちにも就職の道を勧めたいと思いますか?

私はおすすめします。新たな世界に足を踏み入れてみて、そこでの新しい出逢いを大切にしてほしいです。

スケートの場合は一人で対応する必要がありましたが、テレビ局にいると沢山の仲間たちと協力し合うことができます。何か一つのものを、仲間たちと一緒に作り上げる経験はとても新鮮でした。

フィギュアスケートが忘れられなければ、戻ってもいい。私も今はフィギュアスケートに携わっています。二度の出産のタイミングがあったので、本腰を入れられるようになったのは最近ですが、社会人になってからジャッジの資格を取得しました。

もちろん仕事には相性の問題もあるので、適材適所のポジションを見つけていくのが良いと思いますね。あとは引退後も滑り続けたい気持ちが強ければ、絶対にプロスケーターの道をおすすめします。

アスリートとアスリートの親御さんに伝えたいこと

—これまでに現役時代の困難やセカンドキャリアについてお話を伺ってきました。この記事をご覧になっているアスリートのみなさんに向けて、あらためて伝えたいメッセージはありますか?

「夢は大きく見続けるものであった方がいい」と、私は(佐藤)信夫先生から言われ続けていました。「継続は力なり」という言葉の通り、大きな夢を抱き続けることで日々精進することができます。

もちろん身近な目標も大事だと思いますが、大きな夢を見つけて日々努力すれば、いつか何かが変わるはず。私も活躍するまでに多くの時間を要しましたが、挫折することがあっても是非続けてみてほしいです。

挫折してしまったら、一度休んでも良いと思います。継続するか否かを、じっくりと考える時間を設けても良いと思うんです。そのときに「再挑戦したい」と思えるなら、その思いが少しでも残っているのであれば、ぜひ継続してみてほしいなと。

—最後に、子供にフィギュアを習わせている親御さんたちに伝えたいことはありますか?

子育ての厳しさを実感している今、親御さんたちには「頭が下がります」としか言えないのが正直なところです。忙しない日々の中で、子供が思うように練習してくれないとイライラすることもあるかと思います。

私も子供の練習風景を見て、もどかしい気持ちになることがあります。でもきっと子供もそれなりに頑張っていると思います。なので、いいところをたくさん見つけて褒めてあげてほしいです。褒めすぎるぐらいが、案外ちょうどいいのかもしれません。

—ありがとうございました。

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